『本当に聞こえた音だけを演奏しろ』('04.7.13.)

ピアニスト・小曽根真のエッセイにあった言葉である。オスカー・ピーターソンに感動し、渡米して音大で勉強し、クラブでオスカーの曲を弾いて過ごしていたが、デビューのチャンスが巡ってきてアルバムを作ろうとした時に自分の音楽がないことに気づいた。その頃チック・コリアに「自分の曲をいっぱい書け」と言われ、ゲイリー・バートンからは「手に弾かせるな! 本当に聞こえた音だけを演奏しろ」と言われたというのだ。そこで彼はクラブでの演奏曲目をスタンダード・ジャズからオリジナル曲に変えてみたが、客数は急減した。だがそれで得たのは、自分と向き合う音楽を作ることの大変さと大切さだった。
ゲイリーの言葉を“うたうたい”に当てはめると、「声に歌わせるな! 本当に聞こえた音だけを歌え」となる。指揮者に当てはめてもしかり。誰かの真似をしたら、感心はされるかもしれないが感動してはもらえない。彼が生きているジャズの世界はクラシックとは違ってオリジナルやアレンジが必須である。一方私が生きているのは、ひたすら楽譜と向き合って追求していく世界である。だが私には同じに思えるのだ。確かにクラシックは楽譜に忠実でなければならないが、それは楽譜をなぞって演奏することでは決してない。楽譜の向こう側にある音たちを聞き取れなければ、魂のある演奏は出来ない。私自身は、年々その音たちを聞き取るのが早くなっている気がする。たいていは音を鳴らさなくても楽譜を見ていると聞こえてくる。だからあとは、聞こえた音に近づく為に練習するだけだ。昔は長時間楽譜と睨めっこしたりして頭でっかちだった。今はたいして長い時間楽譜を眺めることもないし、歌の場合は歌詞の意味を考え込むこともない。それなのに聴衆の評価は昔より良いように感じる。それはきっと楽譜の向こう側から語りかけてくるものをたくさん感じ取れるようになったからなのだろう。
そんなわけで、この言葉を目にして何か大きく納得できた気がした。自分が歌ったり指揮したりする曲が、「本当に聞こえた音」に近づくように日々を過ごしたらいいのだ、と確信を持てた気がして、嬉しい。



『音楽の下に存在する私たち』(2004.5.4.)

私の大好きなピアニスト、マルタ・アルゲリッチがこんなことを言っている。
「解釈というものは筆跡と同様、人によって異なります。同じピアノで同じ作曲家の曲を弾いても常に音は違います。音や音色に対する演奏家の想像力も非常に重要です。演奏家は音楽にその曲本来の命を吹き込む一種の義務がありますが、音楽の上ではなく下に存在する私たちは謙虚でなければいけません。演奏家自身が楽しみ努力しなければ聴衆も楽しむことはできません。」 昔、初めて彼女のピアノを聴いたときから彼女の音楽が好きだった。理由など、ない。いや、なぜ心を動かされたのか解らなかった。ある時、車のFM放送をふと聴いて耳を奪われたことがあった。誰の演奏か知りたくて最後まで聴くうちに、ますます心を揺り動かされた。それも彼女だった。
彼女の演奏は自由奔放である。しかしそれは勝手に弾いているのではなく、楽譜に忠実でありながら様々な表現で聴かせてくれるのである。作曲家が楽譜を通して演奏家に伝えようとしているメッセージをどれだけ読み取ることができるかが、クラシック音楽の基本だと私は考えている。そして、読み取った上で演奏家本人の技術(表現力)を通して聴衆に伝えることが、演奏家の役割である。
合唱指揮者の場合は歌い手を通して伝えるという、さらにもう一段階プロセスを多く必要とする。アマチュアの合唱だと、まず楽譜の読み取りかたから始め、読み取った音楽を実現するための技術を教えたり示唆したりして、やっと演奏へとこぎつけるのである。指揮者という演奏家は、自らは決して音を発することはないので非常にもどかしいことが多い。だが一つ誇れることがある。演奏者と聴衆の間に立つと、そこには指揮者にしかわからない素晴らしい空間があるのだ。指揮者と演奏者の間で生まれた音楽が私を超えて客席に流れていくと、それを受け取った聴衆から何かしらエネルギーのようなものが湧いてきて、演奏者に返ってくる。すると演奏者がそのエネルギーを受け取って、さらに温度の高いエネルギーを発する。こうして私の前と後ろでエネルギー交換が始まる。そして双方の温度が同じになると、素敵な出来事が起きるのだ。指揮者はこの交換地点に立って、自分の体の前面と背後でいろいろなものを感じて演奏者にサインを送る。この交換がうまく行ったときには必ず嬉しい感想をもらえるのだ。 音楽の下に存在する我々が謙虚に音楽と対話すると、音楽の神様はこんなにも素敵な贈り物をくださるのだ。



『合唱団における指揮者とマネージャーの関係』(2004.4.6.)

春は合唱団も役員交代の時期である。私が関わっているいくつかの団もそうだ。
集団ではとかく技術的なことがクローズアップされがちだが、合唱団もしかりで、指揮者は特に目立つ存在になってしまう。だが、メンバーや指揮者が音楽に専念するためには優秀なマネージャーが必要だ。この場合指揮者は指導者に、マネージャーは団長、幹事長、運営委員長などに置き換えることができるが、要はマネージャーは音楽以外のセクションの責任者である。合唱団は確かに指揮者不在ではやりにくいが、マネージャーの存在を指揮者より下というイメージでとらえている人が意外に多いのではないだろうか。
しかし、私にとってマネージャーは同等、場合によっては絶対的存在である。指揮者としての完成予想図を実現させるためには、自分の思いを明確にマネージャーに伝え、マネージャーは実現させるための手立てを考える。そして両者の意識が一致して初めて団は前へ進むのだ。
ただ、どこの団にも必ず優秀なマネージャーがいるとは限らない(指揮者もだが…)。代替わりするたびに育てていかねばならないことが多い。それでも私は同等の関係でありたいと思っている。たとえ相手が学生でも、である。それがいいマネージャーを育てる最適な方法だと考えるからだ。
このような考えを持つようになったのは、私が尊敬する安堵浩利氏の影響が大きい。彼は10年ほど前ついにプロのマネージャーとなったが、私が知る中で彼ほどマネージャーという仕事にプライドを持った人はいない。コンサートでステージ袖から出て行くとき、彼は絶妙のタイミングで私を送り出してくれる。これはむしろステージマネージャーの範囲になるので、またいつかゆっくり書きたい。とにかく、彼と知り合わなければ今の私はなかったと言っても過言ではない。



『ずっと前から疑問に感じていたこと』(2004.4.5.)

 私は歌手だからか、コンサートの際はステージに登場し演奏し退場するまでが全て音楽だ、と教えられてきた。言わば、聴衆の目に触れている時間はパフォーマンスである、と。
 ところが楽器のプレーヤーはいささか違った佇まいなのである。まず、楽器の人にはシャイなタイプが多いせいか、ステージの出入りも伏し目がち。お辞儀してチューニングして聴衆に視線を合わせることもあまりないままに演奏を始め、終わっても微笑む程度で帰って行く。しかも演奏中、前奏や間奏の間に楽器の調整をしたり持ち直したり、管楽器の場合は口元を気にしてみたり…そうする必要があることは勿論知ってはいるが、客席から見ているとその時間が音楽とは全く無関係に感じられて、残念な気持ちになる。
 歌手の場合は、髪を直すのも、たとえ顔のどこかが痒くなって我慢出来ずに掻いてしまうときも、必ず演技の一部として動く習性がある。そんな歌手の私から見ると、いわゆる“素”の瞬間が気になってしかたがないのだが、楽器の人から見たら「“歌うたい”ってなんてちゃらちゃらしてるんだろう!」ということになっているのであろう。 しかし私は歌手である以上、今のスタンスを変える気はさらさらない。それよりは “ちゃらちゃらした楽器弾き”がちょっとだけでも増えてみてほしい。
まあこんなことを考えているだけでも、楽器の人から見たら疑問に感じるのかもしれないが…。



『ホールの音響と楽器の持つ最大限に美しい音との関係』(2004.4.3.)

 昨日のコンサートを聴いて思ったこと。
 キャパ300ほどのそのホールは、思いのほかよく響いたので少し驚いた。むしろピアノ演奏を聴くには大きすぎる音量だった。ピアニストが弾き始めた途端、「この若い音楽家の卵はピアノをどうコントロールするのだろうか・・・」と思った。そして私の懸念は残念ながら現実のものとなった。要するにホールの大きさとフルコンサートのピアノでは、全くバランスが取れていなかったのである。
 我々演奏家がコンサートで最も神経質になるのは、その日のホールの響きだ。ホール・リハーサルは当然ながら必要不可欠。リハーサルの短い時間に、いかにそのホールの特性を見出して本番に生かすかが全てと言ってもいい。自分が表現したい音楽を聴衆に伝えるためには、ホールを味方につけなければならない。このホールに最も美しく響かせるにはどんなテクニックを使えばいいのか、己の持てる頭脳とテクニックを総動員するのだ。  昨日のベートーヴェンは熱演だったが、なぜか拍手が薄かった。まるで1000人も入るホールで弾いているかのような大音量が聴衆の耳を麻痺させてしまい、心地よい時間と空間にはならなかったのだ。音楽家の卵だから、まだまだこれから経験を積んで成長するに違いない。それよりも、若い人の演奏を聴いて昨日もまた己の心を新たにした。
 どんなコンサートも聴くことはプラスである。

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